キリスト教Q&A

宗教改革(2)異議を唱えた16世紀のある勇敢な女性

異議を唱えた16世紀のある勇敢な女性
                静岡英和学院大学教授 伊勢田奈緒

1517年10月31日、マルティン・ルターの95ヶ条の論題によって宗教改革は始まったとされ、今年はそれから500年となる。ローマ・カトリック教会の伝統と権威に抗して、聖書のみ、信仰義認を掲げるルターの運動は、当時の人々にとってどのように受け止められていたのだろうか?!
実は、当時のヨーロッパは不安と緊張に包まれ、かつてないほどの社会の変動期であった。たとえば、ペストの猛威である。15世紀には各地で「死の舞踏」と呼ばれる不気味な図が描かれたが、これはペストの流行で教皇や国王のような身分の高い者も豊かな者も貧しい者も、いずれは死に直面するという現実を人々に突きつけたものであった。さらにまた、女性にとって、一段と不幸な時代だったとも言える。宗教改革はその後、カトリックとプロテスタントの宗教戦争を巻き起こし、多くの女性達が子供、夫、父親を戦場に送り出し辛い目にあったことであろう。さらに、衝撃的な魔女狩りと魔女裁判が行われた。もともとカトリック教会が中世において、異端を取り締まるための魔女裁判として行われていたものであったが宗教改革が始まると、カトリック、プロテスタント両派がそれぞれ敵対する宗派を魔女として告発するようになり、1600年頃は最盛期だった。激しい宗教戦争の中で、非寛容の精神を互いに高揚させ、他宗派の人間を魔女であると断定して共同体から排除することが盛んに行われた。そのような時代にあって、ルターの福音主義を支持し、不正、不義に厳然と立ち向かい、異議申し立てをした一人の女性宗教改革者アルギュラ・フォン・グルムバッハを紹介しよう。
彼女は1492年にドイツの貴族の娘として生まれたが、当時のドイツは、貴族と領邦君主間の抗争が絶えることがなく、彼女の家も没落していった。15歳の頃、バイエルン大后妃クニグンデの女官として宮廷に送られた。当時、女子教育は一般的ではなく彼女のような没落貴族の子女は女子修道院か、宮廷へ送られてそこで教養を身に着けるしかなかった。アルギュラは約10年間の宮廷生活の中で、信仰心篤い后妃の下で聖書を学び、また十分な教育を受け、美しいドイツ語が使いこなせるようになった。幼い頃より彼女は不幸が連続して訪れた。宮廷に入って間もなく、最愛の両親がペストによって亡くなり、1516年には彼女の後見人を申し出た叔父も政争の中、裏切り者として斬首された。同年、彼女は24歳の時、女官を辞め、結婚したが、相手は貧乏貴族であり、彼は彼女のことを理解せず、正義漢にあふれ行動的な彼女とは正反対で、あくまでもカトリック教徒を通す保守的で平凡で小心者だった。彼女の転機は、1523年に起こったインゴルシュタット大学のゼーホーファ事件であった。事件は、カトリック教会の牙城とも言えるインゴルシュタット大学の若い講師ゼーホーファがルターに影響された神学を講義していたことに怒った神学部教授陣がその撤回を彼に脅迫的に命じたというものだった。彼女はこれを聞きつけ、大学の教授陣に公開討論を申し出たのである。彼女にとって最大の壁は、当時、女性が公言できないことであった。しかし、彼女は「だれも男性が発言しようとしないし、できないとなれば」、「一人の前で私を受け入れる者を私もまた、天にいます私の父の前で受け入れるであろう。しかし、人の前で私を拒む者を、私も天にいます私の父の前で拒むであろう。」(マタイによる福音書10章32~33節)。」という聖書箇所から、女性も公言できる権利があると解釈しその壁を破ったのである。彼女は「教皇、皇帝、君公たちと言えども神の言葉に対しては何の権威もないはず」として、人間の権威、すなわちローマ・カトリック教会や行政官の権威に対して公然とゼーホーファの事件の不正を暴いたのである。もちろん、彼女の活動を夫は全く理解せず、また理解しようともしなかったのであるが。
この事件を機に彼女はそれまでのいくつもの女性に対するタブーを破り、堂々と世の不正不義に対して公言し、また執筆した。恐らく、彼女は最初のプロテスタントの女性政治記者であったとも言えよう。もちろん、インゴシュタット大学の神学者たちによる彼女への悪口、デマなど言論攻撃、また当局側の弾劾も激しいものであった。しかし、彼女の心はしっかりとキリストに捕らえられていたので、屈しなかった。残念なことに、彼女の公の活動は長く続かなかった。なぜなら、農民戦争が勃発しドイツ国内が混乱し、また彼女への迫害も度を増していったからである。
アルギュラの全生涯はどうみても幸せとは言えない。これは当時の女性に共通したものであったに違いない。しかし、彼女は世俗的、外面的な権威や権力に優越しうる「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」というルターの教説を常に心にもって、不正、不義の前に立ち向かった不撓不屈の女性であったと言えよう。

宗教改革って(1)

16世紀宗教改革とは・・・
 今年、2017年は宗教改革500年という年にあたります。いったい、宗教改革とはなんだったのでしょう・・・。とにかく、この時代は「熱い」思いの人たちが多かったように思います。さて、まず、ドイツの宗教改革のお話をすると、長くなりますが、かいつまんでお話ししますと、15世紀後半から16世紀初頭のヨーロッパは・・・政治、経済、宗教、外交・・すべてが教会・・ローマ・カトリック教会を中心に動いていた中世の体制がほころびてきて・・・その上、聖職者たちは人々の救いよりも、教会を維持していくことや、自分自身のため、私利私欲など、・・・本来あるべき教会のリーダの姿ではなくなってきて、・・・限界に達してきていた・・と言えると思います。そういう時に、ドイツのマルティン・ルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会に「95ヶ条の提題」を掲げて、教会を正そうとしました・・そして免罪符論争がはじまり・・これがきっかけで・・やがて、教会改革や学校改革、また国家独立、宗教戦争と・・ヨーロッパ中が疾風怒濤の時代に突入していくことになります。
 さて、ご存じだと思いますが、当時、聖職者や修道士・・つまり、神様に仕える職業の人は結婚はできませんでした。これは、現在のカトリック教会でも結婚はできません。さて、ルターは、1520年の論文『ドイツ国民キリスト者貴族に与える書』において、聖職者の結婚は許されるべきであると述べています。プロテスタントは教会改革だけでなく、結婚改革も行ったのです。ちなみに、今現在も、カトリックでは聖職者の結婚を認めていません。このルターは、1521年の春、ヴォルムスの勅令によって、教会(ローマ・カトリック教会のことですが)と神聖ローマ帝国(ドイツは当時、神聖ローマ帝国の中に所属していて、もちろん、帝国はカトリック教会を支持していました。)により、破門を宣告されました。つまり、修道士であり、大学教授であり、説教者であった・・その人が破門されてしまったのです。おかしなことですが・・。カトリック教会から見れば、異端ということになったのです。この続きはまた。

イースターを知って欲しい(2)イースターとうさぎ

イースターのシンボルとして卵の他に、うさぎが用いられます。うさぎは多産で特に春先に子どもを産むので、新しい命のシンボルとして用いられるようになったそうです。ヨーロッパでは、三位一体の神をあらわすために3羽のウサギが用いられている。野原に出没するうさぎは、イースターエッグを運んでくる役や、たまご探しの案内人とされたりするそうです。想像すると楽しくうきうきしませんか?イースターが幸せで喜びに満ちたものでありますように。

イースターを知って欲しい(1)イースターエッグっていうけれど・・

「キリストが復活しなかったら・・・すべては空しい・・」とパウロは言いました。キリスト者にとって、イースターは生きる希望であり、喜びなのです。そして、キリスト教ではさまざまなシンボルを用いて、復活の心からの喜びを伝えてきました。その中でも先ず、イースターエッグが最もポピュラーです。
 復活祭(イースター)を祝うために、特別に飾り付けられた卵をイースターエッグと呼びます。イエス様のよみがえりと新しい命のシンボルとして昔から卵が用いられてきました。石にも見えるこの物から新しい命が誕生します。その不思議と、イエス様の復活が重ねられているのです。
 また、教会では「エッグ・ハント(たまごさがし)」がイースターの日に行われます。イエス様の復活は日曜日の朝早くイエス様のお墓に出かけた女性たちに、天使から告げられました。このことから、イースターの日の朝早く、多くの教会では墓前の礼拝や野外での礼拝が行われています。そして、このとき、子供たちが楽しみにしているのが、エッグ・ハントです。あらかじめ用意したイースターエッグを野原や公園などに隠して、それを皆で探し当てます。イエス様の復活という真理を必死に探し、しっかりと自分のものとすることを、このたまごさがしを通じて皆で体験します。ちなみに、2017年の今年のイースターは、4月16日の日曜日です。

イエス・キリストの誕生日は12月25日?

「イエス・キリストの誕生日は?」と聞かれると「12月25日!」と皆さんは、答えることでしょうね・・・。実は、イエスの生まれた年も、月日も正確なことはよくわかっていません。しかし現代の大方の学者たちの意見では、紀元前6年か7年頃ではないかと考えられています。それはヘロデ大王というユダヤの国の王が死んだのが紀元前4年であって、イエスの誕生はそれより少し前だと考えられるからです。ただし、紀元前4年をイエスの誕生の年と考えている学者もいます。
西暦というのは、6世紀にローマで活躍したディオニシウスという修道士が、ローマ建国紀元754年をイエス誕生の年とし、この年を元年とする「キリスト紀元」、すなわち「西暦」を作りました。ところが、彼は間違いをしてしまったようで、イエスの誕生年は、先ほど、述べましたように、紀元元年よりも数年前だったと現在は考えられています。さて、誕生日についてですが、実は、古代ローマのミトラ教の神である太陽神の誕生日が12月25日として祝われていました。ところがキリスト教がローマの国教となった時に、この日をイエスの誕生日と定めてしまったのです。これはキリスト教徒が「闇に光をもたらしたのがイエスである」と信じていたからだとされています。ちなみに、クリスマス(Christmas)という言葉は英語でキリストのミサという意味です。何にせよ、12月25日はイエス・キリストの誕生されたことを祝う日として教会は大事にしてきました。これからも!

コピーがなかった時代、聖書はどんな紙を使ったのですか?

紙にはパピルス紙と羊皮紙がありました。どちらも、現在、私たちが使っている紙とはまったく違う素材でした。まず、パピルス紙はパピルスから作られています。パピルスと言われても?パピルスとはエジプトのナイル川河口の沼地などに生育する、約2メートルにまで達する植物です。このパピルスの茎を刈り取ります。そして刈り取った茎を剥いて、長さをそろえ、薄く削って、長い薄片を作ります。その薄片を少しずつ重ねて並べ、その上に、互いに垂直に交差するように重ねて並べます。これを圧縮して乾かし、表面をなめらかにしてできあがりです。なめらかにするといっても、今の紙と比べるととても表面がざらざらしているそうです。
 羊皮紙の方は、動物の皮をなめして作ります。羊の皮の紙・・と書きますが、実は羊の皮とは限りません。パピルス紙でも羊皮紙でも、高価だったので、表と裏の両面を使用したようです。
 ちなみに、書く道具は割り箸の先をとがらせたような代物が使用されたそうです。インクは煤(すす)と、ゴムとを水に溶かしたものが使用されていました。
 また、パピルス紙や羊皮紙から、巻物または綴じ本が作成されました。新約聖書を書き写すのには、綴じ本が多く用いられたそうです。綴じ本とは江戸時代の本のようなもので、ルーズリーフの古代版と考えれば良いでしょう。現代なら、印刷されてから製本されますが、古代は巻物や綴じ本となってから文字を書くのが普通だったようです。巻物も綴じ本も、作成に手間暇を要したこともあり、決して安価ではありませんでした。しかも、現代の書籍のようにコンパクトではなく、かなりかさばり、持ち運びは大変だったと思います。

先生、イエスって名前ですか?

まず、イエス・キリストというのは、「名前」と「名字」ではないのですよ。「イエス」は、たとえば、「桃太郎」とか「桃子」とかいう固有名詞です。
「イエス」は難しく言えば、ヘブライ語の「ヨシュア」の短縮形のギリシア語読みです。ところで、「イエス」という人名は当時広く使われていました。驚くことに、新約聖書には「ナザレのイエス」の他に同名の人が何人かいます!